松永敦ストーリー vol.4

耳鼻咽喉科医の道へ

こうしてやっと医者になることを決めた私でしたが、医者の勉強よりお芝居をしたり歌ったりという時間のほうが長かったために、医者になるにはけっこう時間がかかりました。
それでもありがたいことに、そんな私に母は私いつもこういってくれていました。
「あなたはアメリカ式に、医者になるためにたくさんの基礎学年を過ごしたのよね」と。

そんなこんなで、とにかく両親のおかげで人よりのんびりではありましたが医者になることができ、声を中心とした医学なら耳鼻咽喉科だろうと、父親が教授をしていた大阪大学の耳鼻咽喉科で1年間の研修期間を過ごしました。
その後、国内留学ということで東京大学医学部にある『音声言語医学研究施設』という講座で研究をさせていただけることになり、ここでは私は『歌唱時における喉頭生理について』という研究をはじめることができました。2年めからは文部教官のポストをいただくことができ、東京大学付属病院の耳鼻科にも入れていただいて、ここでは手術もさせていただきました。この東大時代には、指導教官の廣瀬肇教授、新美成二教授という2人の名教授ほか、たくさんの先輩たちに音声外科の基礎を教えていただきました。
そんな合計4年間の東大での修行のあと大阪に戻り、大阪大学で音声外科の仕事を始めるかたわら、神戸女学院大学の音楽学科の生徒に、音声生理、音声病理、音声心理についての教鞭をとらせてもらうことになりました。

この神戸女学院大学での授業は自分自身にとっても本当に役立つものでした。
自分がこれまで声や音について学んできたことを若い生徒たちに教えるということは、自分のなかでの整理になります。
この仕事は自分にとって大好きな仕事のひとつではありましたが、自分のクリニックが忙しくなるにつれてなかなか時間がとれなくなり、6年ほど務めさせていただいた後、後任に道をお譲りしました。

その後、クリニックに来てくださる患者さんたちと個別に対応させていただくなかで、私が神戸女学院大学で行っていた授業を聞いてみたいという方々が思いのほかたくさんいらっしゃることを知り、クリニックの待合室を使って月に1度セミナーをはじめることになったのでした。それがいまのパワーボイスセミナーです。
おかげさまで、このパワーボイスセミナーにはこれまで大勢の方々に参加していただき、またそれが大阪市のお耳にも届いたようで、大きな会場でのセミナーの依頼も何度かお受けしました。一介の医者である私の名前とともに、この『パワーボイス』という言葉も徐々に認知度を得ていけそうな気がしている今日このごろです。